連隊の所在地

           歩兵第12連隊歌

 
  

丸亀護国神社奉賛会事務局

      

  〒763-0081
  香川県丸亀市土器町西5丁目272番地

  TEL 0877-24-1530  
       

丸亀歩兵第12聯隊について



 1868年、明治維新なり、明治8年5月10日歩兵第十二聯隊が郷土丸亀に編成され、9月9日天皇陛下より陸軍卿に軍旗が親授され昭和20年8月15日大東亜戦争終結までの70年に亘り輝かしい戦歴を刻むこ

  とになった。

 聯隊は、明治10年西南戦争に始まり連隊歌にあるように、日清戦争、北清事変、日露戦争、シベリア出兵、第一次上海事変、第二次上海事変に出動し昭和13年9月からは満州警備の任に当たった。

 幸いなことに、昭和20年4月本土決戦準備のため郷土四国高知において終戦を迎え、8月18日蛸森北方四百メートルの高地において軍旗を奉焼し、聯隊歴史の幕を下ろすこととなった。

 70年に亘る光輝ある聯隊の歴史は、代々陣中日誌として歴代聯隊旗手により記録されたが、終戦の混乱の中にも関係者のご努力により焼却されず現存することとなった。

  陣中日誌をはじめ聯隊の貴重な資料は、昭和16年士官候補生として聯隊に配属、昭和19年12月航空士官学校転出まで在籍された小野寺宏様(陸士56期)のご尽力により「歩兵第十二聯隊歴史」(第一巻

  ~第三巻)として自費出版され第十四旅団乃木資料館、香川県護国神社、丸亀市中央図書館他に収蔵されている。
 
  丸亀歩兵第十二聯隊聯隊歴史抜粋は、丸亀護国神社奉賛会HP資料として整備した陣中日誌から聯隊の主要な戦歴を抜粋しできるだけ多くの皆様の目にとまりご理解いただければと思い整理したもので

  す。
 
  かって丸亀には歩兵第十二聯隊が存在し郷土の平和を願い護国の霊となられた四千五百六十柱の上に今日の丸亀があることに思いを寄せていただければ幸甚です。

   令和元年12月5日

                                                                           丸亀護国神社奉賛会
                                                                                     副会長  大 西 邦 彦


 
陸上自衛隊第14旅団乃木資料館に収蔵されて
 いる第12歩兵連隊歴史原本    

 
乃木資料館に収蔵されている第12歩兵連隊歴史
(小野寺宏様が自費出版された聯隊歴史三巻本)

歩兵第12聯隊の歴史



1 歩兵第12聯隊編成の経緯


明治4年

12月大阪鎮台第二分営を讃州高松城内に創置あり。是れ、此年藩兵を廃八月 し、八月   八日四管鎮台東京・大阪・東北・鎮西及び之に

         属する分営若干を設置する事になりたるを以てなり。

         而して当分営に召集する兵員は、岡山及び名東両県の壮兵各二小隊なり。分営長官は陸軍少佐八木僩作にして、大隊長は陸軍少佐井街清顕なり。

明治5年

1月12日    更に宇和島県より壮兵二小隊を召集し、合計六小隊を以て十六番大隊と称するに至れり。

5月27日    五番・六番小隊を伊予国松山城内に分遣す。当時大坂鎮台司令長官は陸軍少将四条隆謌なり。

6月5日    天皇陛下、九州御巡幸の途次、七月四日より同六日まで、丸亀御駐輦の際、御警衛として一番及四番の両小隊出張し、同六日帰営す。  

7月5日     天皇陛下は高松分営兵第十六大隊の三個小隊の技術等御覧成り、後分営将校兵隊に菓子料を御下賜あらせらる。

           此年二月二十七日、兵部省を廃し陸軍省及海軍省を置れ、又此冬歩兵内務書第一版始めて頒布せらる。

明治6年

1月9日   当分営を広島鎮台下に属し、広島鎮台高松営所と改称あり。是れ同日四管鎮台を改め六管鎮台東京・仙台・名古屋・大阪・広島・熊本並びに四営所を置れたるを以てなり。

        当時陸軍中佐 品川氏章、広島鎮台司令長官代理たり。

6月19日   十六番大隊を第十六大隊と改称あり。

   21   阿波国名西郡近傍の人民暴挙に付、第一小隊を派遣す。同二十六日琴平附近の人民暴動に付、第三・第四小隊を派遣す。

        尋で第二小隊の右半隊をも派遣したり。

                各所共皆易く鎖静して帰営す。

8月3日   小隊編成を改めて中隊編成となる。

9月22日    第四中隊を山口県山口に分遣せり。

9月29日    第一中隊を松山に分遣し、曩に分遣したる第五・第六小隊と交代せしむ。

明治7年

2月7日   山口分遣の第四中隊、第十五大隊と交代あり、依て帰営す。

7月      脚気症発生し、転地療養所を当国香川郡安原村に設置し、該患者を同地に移転せしむ。

9月       丸亀営所と改定し、同地に兵営及練兵場等新築落成せり。

          此月徴兵七百九十九名入営し、第二十四大隊編成あり。徴兵の入営、今年を以て始めとす。

12月2日   高松屯在第十六大隊、丸亀に転営す。松山分遣の第一中隊も同く丸亀に帰営せり。       

明治8年

5月10日日   歩兵第十二聯隊編成あり。即ち第十六大隊を以て第一大隊とし、第二十四大隊を第二大隊とす。

          既に陸軍中佐黒木為槙当聯隊長に任ぜらる。

6月       脚気患者多く発生し、依て伊予国道後温泉場の寺院に仮病院を設て、該患者を転療せしむ。

          而して七月三十一日に至り之を撤せり。

9月9日     東京宮中に於て、天皇陛下、軍旗を陸軍卿に親授せらる。

其勅語に日く、 

歩兵第十二聯隊編制成ルヲ告ク依テ今軍旗一旗ヲ授ク汝軍人等協力同心シテ益々威武ヲ宣揚シ以テ国家ヲ保護セヨ。

陸軍卿、聯隊長の意を以て奉答あり。日く臣等謹ンテ明勅ヲ奉シ死力ヲ竭シ誓テ国家ヲ保護セン。

9月17日     軍旗拝受として聯隊長黒木中佐及一中隊、広島に出張す。同十九日、軍旗到着す。

          依て授与式を施行せり。而して本旗は聯隊長の家宅に収蔵し、日々衛兵若千名出張す。

          此月、歩兵内務書第二版の頒布あり。

1013日   西部検閲使伏見少将来着。当隊、検閲を受く。是れ軍隊検閲の始めとす。

12月 給与概則の制定あり。去る四年、高松分営創設以来茲に至る迄、給与法は一

定せざりしと雖ども、大隊給与法を用ひたりし。

明治9年

4月10日     第三大隊増設あり。第一・第二大隊より兵卒若干名を分割して之を編成す。

 

2 西南戦争


  西南戦争
  


3 日清戦争



  日清戦争


4 北清事変



    明治33年

6月18日  斎藤聯隊長は、師団司令部に出頭、帰隊の後、清国義和団蜂起の為め、
  
          公使及び居留民保護として、大隊差遣せらるゝに依り、一般之が準備をなすべきを訓示す。
  
     19日  午前4時35分受領、乃木師団長より左の電報あり。
        
              当師団臨時派遣隊編成要領書ニ依り其聯隊第三大隊ノ編成ニ着手スヘシと、斎藤聯隊長は、将校を集め、之を令達す。各大隊は直に編成に着手す。
   
     21日  正午、全く編成を終り、午後1時出発す。聯隊は丸亀市西端船頭町に整列して之を送り、以て其行を壮にす。
             
              大隊は多度津港より運送船大連丸に乗船し、午後6時30分清国太浩に向て出帆す。

7月23日 下士以下34名北清派遣第三大隊第一回補充として出発す。

              中尉島田伊三郎広島運輸通信部まで引率す。

8月6日  帰休上等兵以下悉皆を補欠召集す。
  
     9日   1・2等卒65名、輜重輸卒3名、第3大隊第2回補充として出発す。
           
              中尉島田伊三郎、軍曹野村鑊天津附近まで之を引率す。
  
    10日  大尉佐野乙男以下224名、台湾守備第11大隊へ交代として出発す。
  
    21日  北清派遣第3大隊中隊長大尉勝野惣三郎、病気後送中、船内にて死亡。

9月 1日  大尉河野喩義、軍曹土器由三郎、第三大隊第三回補充として出発す。

    30日  大尉加茂寛直以下220名、台湾守備として派遣の処、帰還す。

10月18日  北清派遣第三大隊帰還す。聯隊の之を迎ふは出発時の如し。派遣中天津停車場・器械局・天津城攻撃等の戦闘に従事し、特に停車場の戦闘には

                苦戦して名誉を挙げたり。

         北清派遣の当初に於ける第3大隊の職員は附表第3(略)の如し。


5 日露戦争



  日露戦争


6 満州駐箚



  満州駐箚



7 シベリア出兵



  シベリヤ出兵



8 第1次上海事変


  第1次上海事変



9 第2次上海事変



  第2次上海事変



10 満州警備



  満州警備



11 本土決戦準備



   本土決戦準備



12 グァム島の戦闘



   グァム島の戦闘




丸亀歩兵第12連隊旗



   略  歴
一 明冶八年九月九日明冶天皇ヨリ親授セラレ勅語ヲ賜ワル
   
     勅    語
  歩兵第十二聯隊編成ナルヲ告グ依テ今軍旗一旒ヲ授ク
  汝軍人等協力同心シテ益々威武ヲ宣楊シ以テ国家ヲ保護セヨ
  
     奉    答
   臣等謹ンでデ明勅ヲ奉ジ死力ヲツクシ誓ッテ国家ヲ保護セン

一、明冶十年三月一日西南役ニ出動同年十月三日凱旋ス

一、明冶二十七年八月四日征清ノ途ニ上リ同二十八年七月十八日凱旋ス

一、明冶三十七年五月二十一日征露ノ途ニ上リ特二旅順方面大孤山攻略戦二於テ軍司令官乃木大将ヨリ感状ヲ授与セラル同三十八年十月十  六日平和克復・同三十九年一月二十二日凱旋ス

一、明治四十二年九月二十一日満州守備ノタメ出発同四十四年四月二十二日帰還ス

一、大正九年七月六日西伯利亜出征同十一年五月三十日凱旋ス

一、昭和七年二月二十七日上海事変ノタメ出征同年三月二十六日凱旋ス

一、昭和十二年八月二十二日日支事変ノタメ出征特二月浦鎮附近ノ戦闘ニ於テ上海派遣軍司令官松井石根大将ヨリ感状ヲ授与サル同十三年三月二十七日帰還ス

一、昭和十三年十月五日満洲派遣北辺鎮護ノ任ニ当ル間同二十年四月九日内地防衛ノタメ宝東出発同月二十一日徳島ニ到着同年五月四日高知平野ニ転進同年八月十五日図ラズモ終戦ノ大命ニ接シ            
   最モ永キ伝統ヲ有シ由緒深キヲ誇リ来リタル我ガ軍旗ノ敵手ニ委ネラレンコトヲ慮リ同月十八日午前九時三十分高知県長岡郡稲生村(現南国市稲生町)地内蛸森城趾北方四百米ノ高地ノ頂二於 テ
     
   大野師団長及聯隊ノ中隊長以上ノ参列ノ下ニ奉焼シ七十一年ノ永キ軍旗ノ霊正ニ昇天ス嗚呼・痛恨極リナシ
  
   爰二因縁深キ丸亀護国神社神域ニ軍旗塚ヲ建立シテ永ヘニ其ノ霊ヲ安置シ奉ル

       昭和三十六年九月九日 建立

           八十翁 北村萬吉謹書


第70回軍旗拝受記念(昭和19年9月9日)時の
歩兵第12連隊旗
歩兵第12聯隊軍旗奉焼の地石碑
第11師団長 大野廣一 謹書
昭和20年8月18日
(高知県南国市稲生)
碑文
右 昭和20年8月18日
中 歩兵第12聯隊軍旗奉焼之地
左 第11師団長 大野廣一 謹書
軍旗奉焼地経路                     
土讃線御免駅からバスで南下。室谷の四つ角下車。  
西に約2千メートル。稲生小学校(土居谷)の南の記念碑
のある公園が目標地。それより山に入る。(詳細下)   
軍旗奉焼地細部
軍旗塚            
昭和36年9月9日建立
丸亀護国神社境内に設置
軍旗塚碑裏面
碑文
八十翁 北村萬吉謹書






歩兵第12連隊歌


       
一、波静かなる瀬戸の内  蓬莱城下名も高き
    
     歩兵連隊第十二      讃州健児雄叫びて
   
     君の御ため国のため  日毎武を練る勇ましさ


二、明治八年畏(かしこ)くも    授け賜へる連隊旗
     
     度重なれる征戦に          勲功(いさお)を立てし益荒男の
     
     名誉は千代に歌われて      聖旗と共に輝けり


三、西南戦をはじめとし    日清役のその時は
     
     抜くや平壌九連城     一面山に武を振ひ
     
    北清事変のその折も  四方に雄名馳せてけり


四、日露の役の健闘は   旅順撫順や清河(せいか)城(じよう)
     
     感状受けし大孤山    欧州戦のすさびには
  
     朔風荒きシベリアに   また戦功(てがら)を立ててけり


五、上海の空火矢飛ぶや  万難排し夜に乗じ
     
     七(しち)了(りよう)口(こう)の上陸を    敵前近く敢行し
     
     群がる仇(てき)を薙ぎ伏せて     凱歌天地を撼(ゆる)がせり


六、聖旗の下に身を捨てて 降魔の剣を揮(ふる)いてし
     
     わが先輩の英霊は     忠魂堂に祀られて
     
     鴻毛泰山重き義を      永く我等に教ふなり


七、嗚呼山は裂(さ)け海あせて 世相はいかに変わるとも
  
     わが誠心はただ一つ       五条の勅諭胸に在り
     
     粉骨砕身果さばや             皇道宣布の大使命


 
  ※ 昭和九年七月、連隊歌決定 前年十一月
     作成委員六名任命され作成した歌詞を陸軍教授
         友田宣剛修正 陸軍戸山学校軍楽隊作曲
      演奏・歌唱: 陸上自衛隊第十四音楽隊


歩兵第12連隊歌

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